2017年3月23日木曜日

食、におもうこと その②

命をいただく。

ヨーガを練習している人で
そんなのみたくないよ!ゆるせないよ!
て人は、ちょっと見ないほうがいいかもしれません。

最初に言っておくと
わたしは完全なる、ヴェジタリアン、ビーガンではありません。

モットーとしてるのは
野菜であれ、果物であれ、動物、魚であれ、穀物であれ、乳製品であれ、蜂蜜であれ
必要以上のものを摂取しないでおこうということと
常に感謝の気持ちを忘れないでおこう、
生きるためにほかの生をいただく行為はかわらないのだから。

そう、思っています

先生にはヨーガの本質的な意味をちゃんと理解していないと怒られるかもしれないけど‥(これについてはまた別の機会にかきます。なぜなのか、という理由を)

あと、これは体感として
お肉類を食べた翌日は身体がかたいです。身体も重くて、うごきにくかったりする。消化に時間がかかっているのもよくわかるので、ズッシリしてるというか。だから座ると集中しにくかったりします
(一わたし個人の感覚なのでひとによってはちがうかもしれません)

なので、最近では
あまり好んで食べることも少なくなってるのも事実です
そのときの、自分の状況に従うことが増えたというか。そこを注意深く見てから考えるかんじです

さて、そんなことを書いていますが。

昨日、篠山で
猟師さんから鹿肉を分けていただきました。

最近ではジビエ料理として
レストランとかでもチラホラ見るようになった方も多いのでは?

わたしもそんなひとりです

サーフィンに行く時に、深夜山道を走っていると、時々鹿に遭遇します

たまに車に轢かれてる鹿を見て切なくなったり

田舎の方にでかけていくと、結構な確率で鹿に会う

鹿の見た目、すべてにおいて
わたしはかわいらしいと思って仕方ないです。奈良公園で、せんべいくれや〜って、ハムハムしてる姿もなんとも、(ちょっと)おとぼけさもあってかわいい。

さて、そんな
愛くるしいと思っている動物の肉を何故いただいたのか。

そこには理由があります。

自分の目でみて、感じ、知りたかったからです

テレビやニュースや、ドキュメンタリー映画、本、雑誌などのフィルターを通して得た情報ではなく
(見る人に委ねる、とて、そこには撮影した人の意図が多少なりとも含まれるでしょう)

現実としてみたかった。

それとて、とても大きなエゴかもしれませんが‥‥‥。

ある方向から物事をみたら

ある方向からみたら

見る方向がちがえば当然感じ方はかわる
でも、そもそも
そうなったのは何故?
悪と善とで物事を振り分けてしまわないように見える世界があればいいのに、と。

里山では鹿や猪による、被害がそれはそれは大変なんだとか。
農家さんにとっては死活問題で、
増えすぎた獣害をどう対処すべきかは課題だそう。

しかし一方で、そのエリアで"害獣"と言われてる彼ら(鹿や猪など、)も、たまたまそこに来てしまっただけかもしれない。

でも
何故増えるにいたったのか?

人間の住む世界と動物の住む世界の棲み分けが、境界線があいまいになってきてるとか

境界線を守る人が少なくなっているとか

食物連鎖の問題もあるでしょう

自然環境も大きく変化しているでしょう

なんでそうなってしまったのか

それをどう、わたしたちが未来に向けて立て直していけるのか

もとい、自然というおおきなちからを
私たちが変えようとすること自体がちがうようにおもう‥

ならば、個人の行動や、意思や
できることや選択を考えていかないといけないんじゃないか?

その前にわたしは事実をしりたい、と。






猟師さんからいただいた命に
帰りの車で涙がとまらんかった

それは、かわいそうだとか、
ツライという感じ方ともちがった

とにかく感謝しかなかった

猟師さんの目はやさしかった
親子3代で継承しているそうで
そしてそこにも生きるという道が見えて
丁寧に捌き、説明してくれる姿に猟師さんの誠実さがみえた

鹿の目もやさしかった
そして、項垂れていた

すべてがうつくしかった
そして悲しかった
そしてありがたかった

そして自分の考えの偏りさえもかんじた
すっごく、ちっさ。ておもった。なにもしらないそんな自分を

調理するときでさえ
せめても弔いをしようと思い、
火を炊いて、マントラを心で唱え
セージを焚べた

その肉は、まだおどろくほど柔らかかった
つい昨日まで、そこにエネルギーが流れてたんだということがわかった
捌いている手に、感覚としてジンワリと‥
のこるほどに
いのちがあったことがわかった

食べるときも
涙がでた。

無言でふたりでたべた。

この命をくれた鹿の目をおもいだした。
さしだしてくれた、いのちを自分の中にいれたときにまた涙がでた

そして
それは
とてもとても美味しかった

猟師さんがていねいに処理をしてくれているので、
臭いもなく、すなおに美味しいと声がでた

仕留めたら、鹿が苦しまないように素早く急所を刺し
素早く血抜きをする
近くに川があれば、そこで洗い流す、
そうです。

スーパーで、パック詰めされて
大量生産されている食品のほうが問題とかんじた

肉、切り身。

だからそもそもの形が連想しにくいようになってる
もう、その個体としての認識より
食材としての認識だ。
手間もかからないし、
パックを開封したら、はい、調理開始だ。いのちがみえにくい。

大量生産、大量消費

食べるために飼育され、
屠殺され、
加工される。

それって食の世界だけではなくて
身の回りのものすべてだ

消費するために作られ、
消えていく

利便性と裏腹に
こころも向けにくい
やがて感覚も、なんとなくまひしちゃう。
そういうもんなんでしょ、て。

わたしは、そっちのほうがこわい。
感覚をうしなうほうが。

今回いただいた鹿肉は、筋を切ったり
薄皮をはいだり、家でも少し手間がかかる。
自分で釣った魚や、一匹の魚をさばくときには
その全体がみえ、やはり処理に手間がかかる。
だから必然的に捌く前に手をあわせる
よろしくお願いします、
いただきます、と。





その手間をかけるあいだに
感謝が自然とうまれるのも事実です。

そして
人間だって同じ肉だ

そうおもえることすら。

いま書いていることだって、あくまで私の主観で
何が正しいとか、正しくないとか、
良いとか良くないとかというものでもない気がするので
ごめんなさい。一個人の一意見です。

意、見
て、もうすでに意を以て見ちゃってるもんなー
まっさらではないわなー。

そして

命あるものをいただくことは
それ相当にいただく側にもエネルギーを要するということを知った。

そしてそして

またお肉、を欲する時がきたら
スーパーではなく
間違いなくその猟師さんの所にうかがうとおもう。

すごく真摯にお仕事されてる姿が伺えます。
きちんと説明してくれます。
猟に出ていることもあるそうなので、行かれる時は連絡をされたほうがいいそうです。

ファーマーズマーケットで、あるいは畑で直接そのお野菜を育てた生産者から購入するのと同じように
この方から買いたいな、そう思いました。
そこにはちゃんとつながりがみえる。

鹿のお肉。
それはそれは
ほんとうにおいしかったです。

感動しました。
山大さんありがとうございました。




0 件のコメント:

コメントを投稿